2012年06月19日
<太宰治>「げた抱きしめ奥さん放心」入水自殺で元隣人証言
<太宰治>「げた抱きしめ奥さん放心」入水自殺で元隣人証言
毎日新聞 6月19日(火)0時2分配信
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太宰治が入水した付近で当時の思い出を語る雨宮さん=東京都三鷹市の玉川上水で2012年6月17日、棚部秀行撮影 |
19日は今なお根強い人気を誇る作家、太宰治(本名・津島修治)の命日「桜桃(おうとう)忌」。太宰は1948年6月、東京都三鷹市の自宅近くを流れる玉川上水で寡婦の山崎富栄と共に入水し、39年間の生涯を閉じた。当時、太宰宅そばに下宿していた医師の雨宮寛彦さん(81)=調布市=は、土手に並んだ2足のげたを最初に発見したという。「奥さんはしゃがみ込んで、太宰さんのげたをずっと抱きかかえていました」。64年の時を経て、雨宮さんは入水直後の様子を初めて証言した。
雨宮さんは47年4月、山梨県から上京し医科大学に入学。太宰宅の近所で、いとこと下宿を始めた。太宰の妻美知子とは同郷とあって親しくなり、娘たちの家庭教師も務めたという。
「主人の体調が悪いので、お米を少し貸して」。終戦直後の食糧難の時代、美知子は雨宮さんに分けてもらった山梨の米で、かゆを作っていた。「いつも黒い鼻緒のげたを履き、茶色っぽい帽子を深めにかぶって前かがみに歩いていた」という太宰は、近所の飲み屋で行き会うと、「学生さん、こないだはお米ごちそうさま」とあいさつした。
48年6月14日の午前4時ごろ、雨宮さんの下宿のガラス戸が激しくたたかれた。「学生さん、早く起きて!」。戸を開けると、「主人が玉川上水に飛び込んだかもしれない。早く捜して」と、美知子が息を切らしていた。
いとこと上水の両岸に分かれて捜索中の午前6〜7時、雨宮さんは南側土手の茂みが1メートルほど途切れたところで、げたを見つけた。黒い鼻緒の男げたが右、赤茶色の鼻緒の女げたが左、寄り添うように水の方を向いていた。「男性のげたが少し、左に傾いていました。奥さんを連れてくるとその場でしゃがみ込み、放心状態で太宰さんのげたを抱きかかえていました」
2人の遺体はそれから5日後、約2キロ下流で発見される。この日は太宰の誕生日でもあった。
雨宮さんはその後転居し、現在は東京都内の病院で理事長を務める。美知子は97年に死去。「奥さんが生きているうちにもう一度会いたかった」と、雨宮さんはしみじみ語る。
19日の「桜桃忌」には毎年、太宰が眠る三鷹市の禅林寺に、多くのファンが訪れる。【棚部秀行】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120619-00000000-mai-soci
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